鶴ヶ城とも言います!
若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にある城である。観光名所として及び地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもある。国の史跡としての指定名称は、若松城跡(わかまつじょうあと)という。
概要
若松城は旧市街地の南端に位置し、郭内(武家屋敷)と町屋敷が外濠で隔てられ、さらに郭内の内側に内濠を有する梯郭式の平山城である。城跡は都市公園鶴ヶ城公園となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プール及び福島県立博物館がある。また、再建された天守は若松城天守閣郷土博物館となっている。
近世の城郭
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、文禄元年(1592年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。文禄2年(1593年)望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。慶長3年(1598年)氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に加担したことに徳川家康は上杉景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。
翌6年(1601年)蒲生秀行が再び入城したが、寛永4年(1627年)嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、慶長16年(1611年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。
損傷した若松城(会津戦争降伏後に撮影)寛永20年(1643年)加藤明成は改易され、出羽国山形より3代徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となった。
慶応4年(1868年)戊辰戦争の際には会津戦争にて会津勢の立て篭もる若松城は1ヶ月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。
(以上、ウィキペディアより引用)
すごい城ですね!
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